周りの目がどうでも良くなった -日本を離れて思ったこと -
こんばんは、おはようございます、こんにちは。
日本に帰る日が近付いてきました。
3月23日に飛行機に乗って、時差やらなんやかんやあって、24日の午前に東京に着きます。
備忘録がてら、この一年で感じたことをぼちぼち書いていきたいと思います。
最初に言いたいことは、楽に生きられるようになった、ということ。
何だか重てえな、と思われそうですが、笑
僕にとってはそれなりに重要なことなんです。
この頃、村上龍さんの「すべての男は消耗品である。」というエッセイをずっと読み続けています。
出だしの2, 3割はかなり過激というか、感覚で書かれていたんだろうな、という文章が続くんですが、途中からガラッと文体と内容が変わります。
十数年前のエッセイを読んでも、確かにな、と共感できる部分が多く、
村上龍さんへの敬愛をますます深める日々を送っております。
どうしても偉そうな言い方になっちゃうんですけれど、
日本以外の国のことを知ることで、日本のことがよく分かるようになってきた、
というのが最近の僕の実感です。
恐らく、日本と比べるための他の国についての知識がつくからだと思います。
村上龍さんが日本の現状について客観的に述べた文章は、龍さんがイタリアやキューバといった海外へ頻繁に訪れていたこともあり、類を見ないほど的を射ていて、素晴らしいものだと思います。
そして、昨日か今日読んだエッセイに綴られていたのは、
「日本では、集団から外れない限り、個人が成り立たない」
というものでした。
今でこそ日本は、一人ひとりの個性を大切にしようとはしていますが、
長年に渡って集団で何かをしてきた習慣はなかなか消えず。
ちょっと変わった人は、大衆から受け入れらないどころか拒絶され、もしくは見世物のように面白がられます。
個性を大切に、と言いつつも、個性を見つけると揶揄したりからかったり、さらには否定することが未だに多いですよね。
集団を保ったり、均一化を図ったりすれば、その内部にいる人は危機感を覚えずに生活が送れるんです。
みんな同じなんだ、と安心し、この集団を壊すような人はいない、みたいな。
数年前、どこかの小学校か幼稚園であったように、運動会のかけっこで誰かを1位にするのではなく、皆が同率になるように手を繋いでゴールする、みたいなものです。
イタリアでインターンをしている間、日本で感じていた集団意識はほとんど感じられませんでした。
僕がここでは外国人なので、そもそも集団に属していないのかも、と言い出したらこの話は終わっちゃうんですが。笑
でも少なくとも、会社の方々を見ると、
誰一人として同じような恰好をしている人はいませんし、
誰かの悪口を言っているのを聞いたことはありませんし、
平均的な人というのはそもそもいませんし、
集団という集団がないように見えます。
仲良しグループがあるわけでもなく、そもそも仲良しグループって何だよ、というくらいに誰もが気兼ねなく会話をしています。
僕だけでしょうか、
日本では、見た目でいじられたり、変わった髪形や服装をすれば何か絶対に言われたりしていたんですが、こちらではそれが全くありません。
皆が好きなような恰好や髪形をしています。
短めのアフロの方もいます。
集団という概念があるからこそ、ちょっとそこからずれた人をからかっちゃうんだと思うんですが、
ここ(イタリア)では、そもそも集団という集団がないので、
容姿や考え方、行動の基準もなく、みんな自由に好きなことをしている印象を受けています。
ちょっとややこしくなりましたが、
要は日本みたいに集団という基準があるからこそ、
そこからのズレが大きいと目立っちゃうよ、
色々からかわれちゃう。
けど、過剰な集団的思考なんてなければ、
アフロにしたって髭を伸ばしまくったって、
誰からも何も言われないし、
そもそもおかしいことじゃないんだよ。
ということです。
そんな環境で約一年間過ごして、
何か見た目とか考え方が他人とずれていても、どうでも良いやー、と思うようになりました。
そして、この考え方とともに生きる方が、よっぽど健康的だな、とも感じています。