読書が習慣となる時期について
自慢ではなく、事実として、僕は本が何よりも好きです。
読む量、読むジャンルは時期によって全く異なりますが、思い返せば常に本と共にあった人生を歩んできました。
ほんの先日まで、「高校生の頃は全く読書をしなかった」という自己認識があったのですが、ある会話を境に「あ、思い返してみると、意外と読んでたな」と思い出した次第です。
本のない日々は耐え難い僕ですが、読書について長年抱いてきた疑問があります。
それは、「毎日本を手にすることが当たり前である時期と、そうでない時期がある」ということです。
本が好き、ということはずっと変わっていないのですが、ある時期は病的に本を手にしてきた一方で、ある時期はほとんど本を読みません(読めません?)でした。
この時期の差が、ずーっと不思議だったのですが、今日(まさに今日)、この差について何となく説明がついたので、ここに書き記そうと思います。
まず、この文章を読んでくださっている皆さんと、僕が読書に熱中していた時期を共有したいと思います。
・読んでいた時期
- 浪人中(1年間)
- 大学2-3年生
- 就職後~現在まで
・読まなかった(読めなかった?)時期
- 大学4年生-大学院修士課程
僕の独り言に過ぎないような内容になってしまいますが、なぜ僕はこの時期に本を読んでいたのか、何を読んできたのか。そして、読めなかった時期はなぜ読めなかったのか、を一つひとつ振り返ってみたいと思います。
*ただの独白を記しても、完全なる自己満足でしかないので、それぞれの時期に読んだ本の中から、特に印象に残っている本を紹介してみました。どの本も、僕の中で根強く残り続けている本ですので、気になる本があったら是非お手に取ってみてください。
- 浪人中
親からすれば、「勉強しろ!」と一喝したくなるのでしょうが、僕の読書熱はこの時期に生まれました。
実家から予備校までは電車で片道30分。電車内で何もしないで過ごすには勿体なさすぎます。しかし参考書を開くのもだるかったので、僕は文庫本を開くことにしました。
初めは父の本棚から本を拝借することが多かったのですが、次第に自分で本を購入するようになり、本当に読みたい本を買い集めていきました。予備校の授業の合間に、古本屋へ行っては何十冊も文庫本を買っていたのがとても懐かしいです。あ、授業はサボってないですよ、本当に。が、自習室では本を読んでました。
なぜ浪人中に本にハマったのか。そう尋ねられたとき、僕はたまにかっこつけて「勉強しなくても大丈夫だと思ってたから」とキモいことを何度か吐いてきましたが(恐らく聞き覚えのある方もいらっしゃるかと)、実際は違います。勉強だけに縛られることへの違和感があったのは確かですが、浪人というふわふわとした立場へ感じていた虚無感、それに加えて、この時期、家族の環境があまり良くなかったことで、本の中に居場所を求めていたのだと思います。
小説ばかりを読み漁り、浪人していた一年間で120冊を読みました。
今でも思い出せる本(著者の敬称略・太字は特に大好きなもの)
村上龍 :「限りなく透明に近いブルー」「五分後の世界」
「半島を出よ」「走れ!タカハシ」
遠藤周作 :「海と毒薬」「沈黙」
太宰治 :「斜陽」
夏目漱石 :「それから」「門」「行人」
司馬遼太郎 :「殉死」
ドストエフスキー:「虐げられた人びと」「賭博者」
- 大学2-3年生
大学1年生の間もたくさんの小説を読みましたが、浪人中とほとんど変わらないので、割愛します。
2-3年生の間は、小説から一変、哲学書に触れるようになりました。1年生を終え、2年生を迎える前の春休みに、ある個人的な出来事を経たことで、哲学に強い興味を抱くようになったのです。
また、佐藤優さんの本に初めて触れたのもこの時期で、「こんなに素晴らしい方と同じ時代に生きているのか...!」と強い衝撃を受けたのを覚えています。今も佐藤さんの本は、線を引きながらふむふむと読み続けています。
大学も研究室やゼミはまだなく、座学さえこなし、そこそこの成績を取っておけば何も問題はありませんでした。が、「学科の座学だけこなしていても、平凡な学生にしかなれない」とは常々意識していて、座学の合間には図書館に通い詰めていました。
読んだ本はすべて手帳に記録、1日1冊以上は読んでいました(3年生の間は年間500冊だったような)。多ければ良いというわけでは決してありませんが、とても充実していた時期でした。
この時期に読んだ本はとても多いので、絞るのは難しいですが...
今でも思い出せる本(著者の敬称略・太字は特に大好きなもの)
村上龍 :「55歳からのハローライフ」
「転校生とブラックジャック」
デカルト :「哲学序説」
- 大学4年生-大学院修士課程
さて、大学4年生になると、それ以降卒業するまで、満足に本を読むことが出来ませんでした。その理由は、研究室に配属されたからです。
では、研究室に配属された後、何故読むことが難しくなったのか?
理由は2つあると考えています。1つは、単に忙しくなったからです。時間の余裕がなくなり、読む本をかなり絞る必要がありました。
もう1つは、研究に頭を使うようになったからだと思います。4年生の頃の遊びのような研究は別ですが、修士になると、自分で研究の流れや考察を行う必要があり、頭がそちらで一杯になっていました。それだけのキャパだと言われればその通りなのですが、研究で使う頭の箇所と、読書中に使う箇所は、案外近いのかもしれません(どちらもよく考えることが必要だから?)。あくまで僕のしょうもない仮説ですが。
この時期を経て、(僕の)頭はそんなに万能ではなく、読書へ割ける時間・思考力(?)は、仕事や学問の影響を受けるのだと学びました。
とは言っても、この時期の読書も充実はしていました。特に、4年生の頃にはヘルマン・ヘッセさんの虜になり、全集をほとんど読みました。最後の大長編を残し、それ以外の小説はすべて目を通しました。
また、かっこつけて毛嫌いしていた村上春樹さんの本にもようやく手を出し、文庫を買い漁っては読み耽っていました。
今でも思い出せる本(著者の敬称略・太字は特に大好きなもの)
ヘルマン・ヘッセ:「クルヌプ」「知と愛」「ロスハルデ」
村上春樹 :「羊をめぐる冒険」「色彩を持たない田崎つくると彼の巡礼の年」
「職業としての小説家」
が、やはり読んだ冊数が少ないため、この時期に、あまり思想的に発達した実感はほとんどありませんでした。今思い返すと、ちょっと勿体ない気がしますが、研究にそれだけ熱心だったと考えれば、まあ...
ちなみに、海外インターン中は、日本語の本がなかなか手に入らず、読書すること自体大変でしたが、
・ダンテの「神曲」
・レイモンド・カーヴァーの「大聖堂」
を読みました。
特に、カーヴァーの大聖堂は、短編でありながらとてつもない力を持った短編で、今日にいたるまで何度も何度も読んできました。
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さて、簡単に勝手に振り返ってきましたが、「で?」とお思いの方もいらっしゃるでしょう。なぜ、急に振り返りの記事を投稿するという奇妙な行為に至っているのでしょうか。
それは、修士課程を終えて就職した今、再び読書にかなり時間を割き始めたからです。
そして、今日、冒頭でも述べた通り、ふと「どうして時期に差があるんだろう、どうして今は読むようになったんだろう」と。
僕にとって、読書に打ち込めなかったのは、物理的に読むことが困難であったインターンの間を除くと、研究室にいた頃だけです。上でも述べた通り、研究をすることで頭を使ってしまい、読書にまで力を割り当てることが、情けない話ですが、とても困難でした。
しかし、それ以外の時期は本にばかり熱中しています。きちんとした立場もなく家庭が荒れていた浪人中も、生きることについて真剣に考えた学部生の間も、就職をした今も、本を開かない日はないというくらい、文章と向き合っています。
読む時期、読まない時期を分けてきましたが、ここからはどうして読む(読める)時期があるのか、そして何のために読んでいるのか、現時点での考えを記していきたいと思います。
まず、どうして読める時期があるのか、という問いの答えは、読めない時期があることの裏返しで、創造的な部分というか、思考をするために頭をふんだんに使うことが出来る時間があるから、です。浪人中も、学部生の頃も、今も、読書以外の勉強にも手を抜かずに取り組んでいますが、理科系の問題を解くための頭と読書をするための頭は異なるのでしょう。これは右脳・左脳とかありきたりな話ではなく、創造性や発想に関わるものだと思っています。与えられた問題を解いたり、コードを書いたりすることと、本の文章に向き合うことは、頭の動き方が違うように僕には思えます。
また、何のために読んでいるのか、という問いについて。
このことは時折考えるのですが、考える時期によって出てくる答えは異なりますし、また答えが出るものでもないことは分かってるんですが、せめてぼやぼやっとした言葉を投げてみようかと思っています。
...と、何のために読んでいるのか考えてみようとしましたが、何か目的や利益を求めて読んでいるわけではないので、ちょっと問いを変えてみようと思います。
読書を通して僕は何を得ているのでしょうか。
一つに、僕は世界の新しい見方を得ているような気がします。これは気取った言い方ではなく、本当に文字通り「世界の見方」を読書を通して増やしているような気がしています。
例えば、小説は単なる娯楽ではなく、小説を読むことで、誰かの人生から見た世界を実感し、取り入れることが出来ます。ここで得た他人の人生は読者の中に残り続け、何かを考えたり決断をしたりするときに、読者自身以外の目を与えてくれます。たくさんの目から物事を見ることで、自分の目だけでは到底たどり着かないような見方や考え方までの道が切り開きます。
もっと実学的な面で言えば、僕自身の経験になりますが、統計学に関する本を読んだことで、数値に対する見方が大きく変わりました。嘘っぽいグラフに反応できたり、確率的思考をもって物事に対処することができたりと、新しい見方をもって情報に接することが出来るようになりました。このような実体験から、僕は、知識は単に頭をよくするためのものでは決してなく、価値観や考え方の柔軟性をより持たせてくれるものだと考えています。
もう一つに、読書で僕のいる位置がはっきりと分かるようになります。
本を執筆した方や、本の登場人物を自分自身を比べると、僕に足りないものや差異が明らかになり、「自分はまだまだだな」とか「僕の努力なんて努力と呼べねえな」と気付けます。すると、驕った気持ちがすうっと消え、本を基準にした自身がよく見えてくるものです。
この相対化による自分の理解は、あんまり良いことのように聞こえないかもしれませんが、僕は本の中の超人と自分を比較することで、「一生かかっても足元にも及ばねえ」と自覚し、その超人たちとの差を少しでも埋めようと足掻きたくなります。そして、実際足掻いています。恐らくこの足掻きは、本を読み続ける限り、終わることがないのでしょう。そして、それで良いとも思っています。むしろ、足掻かないでいるより、足掻く方が絶対に良い。
また、少し意味は変わりますが、自分の位置がはっきりするのは本を開いている間だけではありません。例えば、数か月前、数年前に読んだ本を眺めてみると、「あの頃はこんなことに興味があったのか」「この頃と比べると随分と考えられるようになったな」と昔の自分と今の自分を比べることだってできます。
本や読書抜きで、「今、自分はどこにいるんだろう」と知るのは意外と難しいものです。本があれば、それを基準にして、自分の位置を知ることができるのです。
最後に、僕は読書を通して、生きていることを無意識下で実感しているような気がします。
本を前にして、脳が汗をかくほど何かをひたすら考えているとき、他では得られない幸福と、言葉にできない確かな何かでいっぱいになるのを感じます。
...
最後の一文、気合入ってますが、我ながら気色悪い。許して。
久々に記事を更新してみましたが、文体が以前と比べて変化していることに驚きました。面白いですね。
今後、またぼちぼちと記事を書いていこうと思っています。また、noteに移行しようかな、とかも考えています。noteの見た目が好きだから。笑