壊れたシャワーと向き合う方法
ビールを片手に、YouTubeでミラン対ナポリの試合を見ている。
Serie A(イタリアのサッカーリーグの名前)の公式アカウントがライブ放映している。助かる。
更新頻度が落ちていますが、お許しください。
やることが多くて、なかなかブログに手が回らない日々を過ごしています。
元気です。
あ、服は爆買いしました。
さて、タイトルにも頭の写真にもあるように、シャワーが壊れた。
年末のバスルーム改築からまだ一か月しか経っていない。
シャワーも確か、水管もヘッド部もそのときに変わったはずなので、まあ本当に短い間しか持っていない。
壊れたのに気付いたのは、昨晩11時。
シャワーに入ろうとしたら、ステンレスのカバーが抜けて、写真の水色のチューブが剥き出しになっていた。
まず、え? と不思議に思った。
カバーがひとりでに剥けるはずもなく、僕の前に誰かが使っていた間に取れたはずだが、誰からも何も聞いていなかった。
まあ、何も言わないということは、問題ないんだろう、とお湯を出すと、チューブの穴から噴き出した。
はあ、と、とりあえず服を着て、部屋から携帯を持ってきて、写真を撮った。
そして大家さんに「シャワーが壊れたんだけれど」と送った。どうして僕が送らなきゃいけないんだ?
そして今日、仕事から戻ってきても、シャワーは壊れたままであった。
まあそんなに急に修理ができるはずもない。いつ修理をしてくれるかは、連絡がない。
以前は、こうした理不尽なことというか、日本ではあり得ないようなことに、いちいち腹を立てていた。
が、いちいち腹を立てても仕方がないほど、こういったことは山ほど襲ってくる。
イタリアに来て10カ月が経とうとしている今、あまり何も感じなくなった。
怒っていても、シャワーの穴がふさがるわけでもない、といった観念っぽい思考ではなく、もう少しマシな考え方が身についたと思う。
その考え方は、簡単に言うと、欲望は対象があるからこそ湧く、というものだ。
例をたくさん挙げる。
例えば、イタリアにはコンビニがない。24時間空いているスーパーはたまに見かけるけれど、近場にはないので、ないに等しい。
けれど、日本からやってきた僕は、コンビニというあまりにも便利なものを知っているので、「どうしてイタリアにはコンビニがないねん」と嘆き、「コンビニが近くに欲しいねん」と願望、欲望が湧いてしまう。
イタリア人にとっては、コンビニなんてないのが当たり前だから、そもそもコンビニが欲しいという欲望は持たない。
(そういえば、デンマークにはセブンイレブンが山のようにあった。あれは何でなんだろう?)
例えば、子どもの頃の僕はワインを欲していなかった。当然だけれど。
けれど今はものすごく好きだ。できるだけ良いワインを飲みたいと思っている。
どうして子どもの頃は欲していなかったか。ワインを飲んだこともなかったし、美味しいとは知らなかったし、僕の中で物として確立していなかったからだと思う。
キリがないけれど、例えば、原始人はスマホを欲していなかった。笑
スマホがなくたって生きていけるというか、ここ数年前まで、誰もスマホを欲していなかった。
けれど、スマホというものが売り出されて、いかに便利なものかが知れ渡ると、みんなスマホを欲し始めた。
結局、何が言いたいのかというと、大体のものはなくても生きていけるということ、そして何かを欲するのは、その何かがいかに便利で快適なものか知っているからこそ、湧き起こる衝動だということ。
だから、欲望がいかに贅沢であるかを知れば、大体のものがなくたって、別に動じなくなる。
今の僕はシャワーがなくても動じない。
勿論、洗面所で髪などはちゃんと洗ったけれど。
随分と回りくどくなったけれど、シャワーがないなら、シャワーがない頃を思えばいいんです。
コンビニがなければ、コンビニがなくても別に平気なイタリア人の生活を思えばいいんです。
そういえば、今のこの家にはテレビすらないけれど、テレビも同じ。テレビを欲する気持ちがテレビ自体から湧いていることを知れば、何だか虚しくなって、欲さなくなる。笑
結構便利な考え方だと思うが、どうでしょう。
まあ、なんだかんだ言って、とりあえずさっさと直してほしい。
ないとクソ不便だということも知ってしまっているから。笑