言語はただのコミュニケーションツール?
先月、東京で帰国報告会なるものがありました。
Vulcanus in Europeというプログラムを通して、ヨーロッパで一年間研修を受けたメンバーが、一人ひとりプレゼンを行いました。
まえおき
僕を除いて22名ものプレゼン発表を聴き続けるのは、なかなか骨の折れる作業でしたが、その中で今も心に残っている言葉があります。
一言一句正確に、その言葉を憶えてはいないんですが、ニュアンスは次の通り。
「言葉って結局、誰かとコミュニケーションするためのもの」
僕の記憶が正しければ、二人の方がそう仰っていました。
それを聞いたとき、「なるほどな」と感じたのと同時に、「果たして本当にそうかな?」とも感じました。
決してその言葉を否定したいわけではなく、間違っていると言いたいわけでもないのですが、僕はこう思う、と残しておきたい気持ちが強くあります。
というわけで、英語、イタリア語を勉強してきた今、言語に対してどう考えているのか、バリバリ理系工学部の僕がちょっとだけ述べたいと思います。
確かにコミュニケーションツールとしての役割が強い
仰る通り、確かにコミュニケーションツールなんですよ。
例えば日本で暮らす以上、日本語ができないと日本人とコミュニケーションを取ることはちょっと難しいと思います。
他国でも同じように、タイではタイ語、ベトナムではベトナム語、中国では中国語が分からないと日常生活はままなりません。
各国の母国語を知ることは、旅行をするにしろ生活するにしろ、大切なことだと思います。色んな意味で。
しかしアイスランド語や日本語を習得するのが恐ろしく困難であるように、言語学習はそう簡単にいくものではありません。
そんな風に世界は出来ていますが、私たちは英語というちょっと便利な言葉も持っています。
大抵の国で英語は通じるので、英語さえ分かれば何とかなります。
(日本でも通じますが、日本人は英語ができないというのは海外でも有名な話です)
そういった意味で、英語は立派なコミュニケーションツールです。
英語を通せば、世界の多くの地域で会話をしたり、仕事をしたり、生活をしたりできる可能性が広がります。
文化に目を向けてみる
ツールであることは否定しません。再三述べているように、全くその通りだと思っています。
僕はそれに加えて、母国語のもたらす文化への影響もあると思います。
私たちの文化は少なからず言語による影響を受けている、ということです。
言語学を専門にしているわけでもないので、あくまで感想のようなものになってしまうのですが。
例えば、最も身近な例を挙げると、日本語。
ご存知の通り、日本語は母音と子音が組み合わさって発音されますが、
日本語を口から発する際、一音にこめられるものは、どう頑張っても平仮名一文字分に過ぎません。
目で文章を読めば、漢字のおかげで幾分速く読むことが出来ますが、口頭で何かを述べるとなると、同じ時間での情報量はどうしても英語や他の言語に劣ってしまいます。
そうした性格を活かし、いかに少ない音の中で風景や心情を描けるか。
その結果生まれたものが俳句や和歌だと思います。
音の数を決めることで独特のリズムを生み出し、美しさに結び付けるような芸術。俳句は世界一短い歌である、と中学校の先生が繰り返し言っていたのを憶えています。
そんな俳句や和歌は誇るべき日本の文化であると思いますが、その重みはなかなか「日本的」なもので、頭の中でその情景を描きつつ、音そのもの以上の意味を感じ取らなければなりません。
また、そういった言葉の裏に隠されたものを読み取るということは、俳句や和歌の範囲を超え、日本語全般の性格となりました。
空気を読む、物事をはっきり言わないといった文化は、日本人の性格というより、日本語の性格であるような気もします。
(日本人の性格が日本語によって作られている、という気もしますが、根拠もないのでそこまでは言い切れません)
音以上の意味を感じ取ることが、日本語には求められていると僕は思います。
これはコミュニケーションというより、俳句や和歌から派生した文化的なものであると言いたいです。
音楽に目を向けてみますと、日本語はやや不向きなのかもしれません。
というのも、一つの口の動きに対して、音一つ、平仮名一文字しか発せられない言語のため、4~5分といった短い時間やそのリズムの中で、たくさんのことを語るのは困難なことです。
なので、J-POPや日本の音楽にも俳句や和歌の要素というか、聴き手の想像を膨らませるような言葉の使い方をするのが望ましいと思うのですが、そういったものを書くのはそう簡単なことではありません。
出来事をそのまま述べてしまったような、誰かの日記のような歌詞をよく目にしますが、そういったものが多いのは、書くのが簡単であるからに過ぎません。
つらつらと思うがまま、音の制限を考えずに何かを書き連ねることは、思ったより簡単な作業です。
限られた時間の中に、いかに言葉を乗せ、聴き手の想像をかきたてるか。
ちゃんとしたイメージを与えるのではなく。
日本語の音楽に求められているものは、こういうものだと僕は思います。
ちょっと脱線しましたが、日本語と同じように、各言語はそれぞれ固有の性格のようなものを持っています。
イタリア語の音は非常に甘く、誰かが話しているのを聞くだけでも、そのリズムと音程の美しさに胸を打たれます。
話し手の地声もやや高くなりますし、話し手が根暗にしろ落ち込んでいるにしろ、何だかご機嫌に聞こえてしまいます。
そのせいか、音楽もロックやメタルといった深刻さや暗さが求められるようなものは盛んではなく、日本でいうシンガーソングライターのような歌手が大勢います。
日本語による俳句や和歌と同じように、その言語の性格に沿ったイタリアのポップ音楽文化というものが発展しているのです。
英語についても、これまた音楽の観点から述べてしまって恐縮なんですが、英語ほどロック音楽がしっくりくるものはないと思います。
ビート数が合っているのか、音程やリズムが似ているのか分かりませんが、ロックを歌うなら英語が最も適しているんじゃないでしょうか。
このことを裏付けるわけでもありませんが、ロックと言えばやはり、英語圏のアメリカやイギリスの芸術であります。
長々と述べてきましたが、以上のようにツールを超えたリズムや音程、言葉にできない何かをそれぞれの言語が持っています。
確かに英語さえあれば、私たちはどこでも生活することは可能ですが、その国の文化を知るには、母国語のことも知る必要があると、イタリアに一年滞在して学びました。
イタリア語ほどサッカーに適した言語は他になかったり。
小説と言語の関係についても書こうと思っていましたが、長くなったのでまた今度。
とりとめのない文章になってしまいましたが、最後まで読んで頂きありがとうございました。