奇妙な自己責任論と日本
また少し重たい話になりますが、以前から気になっていたことを、今日改めて考える機会がありましたので、忘れないように......。
2018年10月末、シリアで拘束されていた安田純平さんが解放されました。
僕は国外にいるので、日本のテレビや新聞がどのように報道していたか分かりませんが、ネットニュースでは、毎日どころか、数時間おきに最新の情報が入り、安田さんのことがとてもよく分かりました。
約3年半に渡る拘束は恐らく誰の想像も及ばないほど過酷なもので、よく帰国直後に会見などを行う体力があったな、と絶句する思いでした。
引き締まった表情が崩れている写真は一枚も目にしておらず(そういった写真が選ばれている可能性もありますが)、とてつもない精神力を持った方だと敬服するばかりです。
しかし、
一方、ネットで流れるのはそういった安田さん自身に関する情報だけでなく、私たち日本国民の闇を示すような考えも、並行してやってきました。
自己責任論。
率直に言います、僕はこの論がものすごく嫌いです。
こんなに想像力に欠けていて、感情まかせにそれっぽいことを言っている意見はなかなかないと思います。
また、この自己責任論が日本以外の国では見られないと聞いたとき、日本国民にしかない何か変な性格があるのだろう、と思っていました。
ずーっともやもやしていたんですが、今日たまたま、作家である佐藤優さんがこの自己責任論に対してラジオで意見したという記事を読み、その内容に同意し、まとめておこう、と思った次第です。
(佐藤さんの記事や参考リンクは記事の一番下にまとめておきます)
佐藤さんの意見を紹介する前に、自己責任論を含め、日本であのとき沸いていた変な意見に対して、僕の反論を書きたいと思います。
・「国が行くなと言ったところに自分で行ったんだから、捕まっても自己責任じゃないか」
僕、この意見が仮に「正しい」と仮定しても、おかしいと思うんです。
というのも、仮に自己責任であったとして、どうしてそれを他人である僕たちが言わなければならないのでしょうか。
自己責任とは、要は、こんなことになったのもお前自身のせいだからな、というものですが、もし本当にそうならば、本人だけがそのことを反省したり考えたりすれば良いだけで、周囲がとやかく言う必要はないと思います。
お前自身のせいだから、とわざわざ本人に言う必要はあるのでしょうか。
それは批判でも意見でもなく、ただの暴言でもあり、どちらかと言えば犯人が言いそうな言葉に近いように感じられます
(来たお前が悪いんだ、だから捕まっても文句は言えんだろう、みたいな)。
この意見をネットに流して、同調を求めるのは、ただ「あいつ馬鹿だよなあ、捕まってるんだもん」と汚い噂話をしていることと変わりないと思います。
安田さんは帰国後、自己責任だと認めています。
恐らく止まない批判に答えるような形で、認める発言をなさったと思うんですが、本来わざわざ言うことでもないと思います。
長い間拘束され、ようやく助かった方に対して「僕のせいでした」と言わせるなんて、おかしくないですか?
・「我々の税金を無駄にするな」
書いてて悲しくなってくるんですが、人命を救うために税金を使い、その結果成功したことを、どうして非難できましょう。喜ばしいことじゃないですか。
こんな素晴らしいというか、役に立つ使われ方も他にないかと思いますが......。
これはあまりに下らないのでさっさと飛ばします。
・「過去に反政府的な発言をしていたから歓迎できない」
この意見もよく目にしました。
これも......政府を批判していた人をどうして助けないといけないのか、ということなんでしょうけれど、そんな全体主義みたいな考えをよくもまあ......。
確かに批判はされていたようですが、だからと言って(当然ですが)放っておいていいわけないでしょう......。
どういう論理で「歓迎できない」と言っているのか、理解できません。なので反論も難しいです。構造が分からないので......。
また、相当前の発言を取り出していることも納得がいきません。それから今までの間に、考えや意見が変わっている可能性は十分にあると思います。それを無視して、「歓迎できない」というのは......
自己責任論について、少し掘り下げたいと思います。
・人に迷惑をかけないことを重んじるあまり
自己責任論は、日本のこの考え方が影響しているのではないか、と考えるようになりました。
それは「他人に迷惑をかけない」という教えです。
子どもの頃から、よく言われてきませんでしたか?
イタリアに来て気付いたんですが、相手に迷惑をかけることを、僕たちは極端に嫌っていると思います。
例えば、バスや電車の車内で電話をすること。これってよくよく考えると、何でいけないのかよく分からなくなってきます(優先席付近でダメ、というのは分かりますが)。
隣に座った知り合いとの直接の会話はOK、でも電話はダメ。どうしてなんでしょう。
そこには「迷惑になるから」という意識があるのではないでしょうか。
イタリアでは禁止どころか、どの車内にも電話でしゃべっている人が必ずいます。笑
誰かに何かを頼みたくなっても、迷惑かなあ、と考えてしまって結局頼めず。
自分のことは自分で、という考え方、どこかに根付いていませんか?
そうした考えは、自分の範疇を超えて、人との関わり方にも反映されています。
自分が迷惑をかけないよう気を付けているため、他人から迷惑をかけられることを許せなくなっているのだと思います。
だから困っている人がいても、見て見ぬふり。迷惑を被りたくないから。
他人に迷惑をかけるな、ということは、他人のことを思いやるような言葉であるように見えて、実は他人との距離を作るような考え方であると思うんです。
イタリアというか、恐らくほとんどの外国では逆、です。
イタリアでは、迷惑をかけあって当たり前だ、という意識が強く(本当のところ、意識すらしていなくて、自然にそうしているだけで)、何かで僕が困っていると、見知らぬ人から頻繁に声をかけられますし、その逆に、見知らぬ人から「ねえねえ、~~ってどこ」と聞かれることも多々あります。
バスや電車で席を譲る姿も、日本よりずっとずっと多く見かけます。
(日本はオリンピック招致のスピーチ以来、「おもてなしの国」などと自画自賛していますが、「おもてなし」は所詮サービスであり、真心から生まれているものではありません。また、何度もなんどもこれを自ら言うことは、恥ずかしくないのでしょうか。スピーチを批判しているわけではなく)
迷惑はお互いにかけ合うものだと認めているからこそ、こうした助け合う心が芽生えているのです。
長くなりましたが、僕はこの、迷惑をかけないようにする、という意識と、自己責任論はつながっているような気がずっとしていました。
「こっちは何にもしていないどころか警告していたのに、勝手に危険なところへ行って、政府の人間を動かして......自分のことは自分で処理しないと」
そういう意識の構造が現れているような気がするんです。
まあ、こういった極端な意見を言う方も一部の人間であるとは、分かっているんですが。
しかしまあ変な時代なもので、TwitterやFacebookといったSNSでは、どんな人にも平等に、同じだけのスペースが与えられています。
誰が呟いたって、Twitter上では、大体同じ大きさの枠で表示されますよね。
どんな人でも好き勝手色んなことが言えて、それは他人の目に平等に映り、面白半分でリツイートされれば、さらに広まっていく。
大きくなればなるほど、たとえどんな内容でも注目を集めてしまい、それが世の意見であるようにマスコミが報じる。
LINEやネットニュースの終わりの方には、世間の反応といって、Twitterの呟きがまとめて載るようになりましたが、その情報に価値はあるんでしょうか?
どこかの誰かの感想をくっつけられて、それを読んだ僕たちは、一体何を思えばいいんでしょうか。
記事を書く方も、素人のどこかの声を載せることに対して、自分自身のプライドは保てるんでしょうか。
話が逸れましたが、極端におかしな意見も大々的に取り上げられてしまう現代は、少し生きにくいものです。同じように感じている方はいないでしょうか。
随分と回り道をしましたが、佐藤さんの意見を要約しますと、
・安田さんを労ることは全くおかしなことではなく、労ることに疑問を持つ方のほうこそ圧倒的少数派である
・自己責任という批判は間違っている。安田さんはジャーナリストであり、その職業的良心に基づく必要がある。そして、安田さん自身も帰国後、説明する責任があると言っていた。この態度はジャーナリストとして正しい
・(ウンベルト・エーコ(イタリアの哲学者、小説家)の言葉を引用し、)批判をしてしまうのは「不寛容」だからではないか
と仰っています。
読み応えのある記事なので、ぜひ一度目を通してみてください。
最後に、この安田さんを巡る意見に限らず、近年、様々な意見が大量に私たちの生活を囲むようになりました。
そうした情報を一つひとつ見極めなければいけませんが、そうした姿勢を取らず、どこかの意見に流され、言いたいことをとにかく言う人びとも少なくありません。
とても健全とは言えない現状に、少し懸念を抱いています。
<佐藤優さんについて>
今回、初めて佐藤優さんの名前を出しましたが、僕は日本でよく佐藤さんの本を読んでいました(大学2~3年の頃は特に)。
論理的な思考、勉強法、生き方、政治、マルクス、宗教(僕は無宗教ですが)について、たくさんのことを佐藤さんから学びました。
よりよく生きるとはどういうことか。佐藤さんの人生に触れたり、本を読んだりするたびに、「ああ、自分ってまだちゃんと生きていないんだな」と思い知らされます。
心に残っている本
・国家の罠 ・先生と私 ・読書の技法 ・獄中記 ・いま生きる「資本論」
・「知的野蛮人」になるための本棚 ・聖書を語る ・希望の資本論
・知の教室 ・ぼくらの頭脳の鍛え方