時間が経つのを待つしかないこともある
姫野カオルコさんの著書に「昭和の犬」という作品があります。
それを思い出した一日でした。
ちょっと重たくなるかもです。
毎週月曜日は休肝日と決めているんですが、今日はちょっと...やってられないです。
切なくもあたたかくて、やりきれないような音楽が合いそうな気がする...ので、こちらを流しながらどうぞ。
Sigur Rós - Heima
・昭和の犬
もしかすると、このタイトル耳にしたことのある人は多いかもしれません。
第150回直木三十五賞(合ってるかな?どうだろ)を受賞された作品で、タイトルも内容も少し不思議なものです。
主人公の女性の幼少期から成人し、人生の斜陽を迎えるまでを描いた作品です。
特に大きな波があるわけでもなく、どの町にもいそうな人を断続的に追うものなんですが、彼女の一生のどこかには、必ず犬がいるんですね。
少女の頃、少し大きくなった頃、そこには必ず、犬。
何でもないような生活を描きつつ、それを小説として巧みに成立させたような、温かくて、捉え方によっては少し苦しい作品です。
当然で、悲しいことでもあるんですが、犬は同じ犬ではなく、恐らく主人公の成長の過程で亡くなっていっているんです。しかし、そういったシーンは描かれることなく、ある章を読み終えて次の章に入ると、そこには少し成長した主人公と、違う犬が待っています。
あえて書いていないんだと思うんですが、読者である僕たちは、「あっ」と気付き、少し悲しくなって、読み進めていくことになります。
そんな小説を思い出したのには、わけがありまして。
今日、たまたま日本の母からラインがきて(寒いけど元気ねー? と)、他愛もないことを話していました。
大学とは連絡を取っているのとか(取っている、とごまかしました)、帰りの日はいつになるのとか、そういったことを。
話が一段落したとき、ふと僕は「みんな元気?」と聞きました。
しばらくして返ってきた返事は、
「みんな元気ですが、シリウスが先月亡くなりました」
というものでした。
全く予想していなかった答えに、僕はあっと思ったまま、しばらく動けなくなりました。
・シリウスと祖父母
シリウスは、僕の長崎の祖父母のところで飼っていた犬です。
本当に真っ黒な犬で、ハリーポッターのシリウス・ブラックから名前を取って名付けられました。
元々、祖父母のところで飼われていた犬ではありませんでした。
色々と事情があって、祖父母が引き取ることになりました。名前は引き取られる前から、シリウスでした。
僕が小学生の頃にはもう、シリウスは祖父母のところにいました。
たまに僕たちの家族が遊びに行くと、首につけたリードをぴんぴんに張りながら、近くを通る僕たちに飛びかかろうとしていました。
中型犬だったと思いますが、とにかくその当時の僕よりも身体が大きくて、内心怖いなあ、と思っていました。
頭をぽんと撫でようとしても、嬉しそうに顔をぐんとその手の方へ上げて、僕の手を必死に舐めようとしてくるんです。噛まれるんじゃないかとびびって、僕はすぐに手を引っ込めていました。
祖父は散歩好きで、毎日朝の5時前に起きては、シリウスを連れて散歩に行っていました。
僕たちがだらだらと起きて朝食を食べていると、リビングの窓の向こうに、散歩から帰ってくる祖父とシリウスの姿が見えるのが常でした。
しばらく、シリウスも祖父も、本当に仲良く、元気に過ごしていました。
しかし、定年を迎えて退職した祖父は、散歩にいよいよのめり込んでしまい、一日何時間も外を歩くようになります。
僕たちも祖母も呆れる一方、心配しながらその様子を見守っていましたが、
とうとう膝の軟骨が擦り切れてしまって、残念なことに、祖父はほとんど歩けなくなってしまいました。
散歩に行けなくなった祖父はすっかり落ち込んでしまい、以前の溌剌とした笑顔は見られなくなってしまいました。
そして散歩に行けなくなったシリウスも、身体を動かす機会がなくなり、やがて徐々に元気を失くしていきました。
僕たちが顔を見せても、飛び上がって喜ぶようなことはなくなり、短い尻尾をゆっくりと振るだけ。その姿には明らかに老けが現れていて、年なんだな、と僕たちは感じざるを得ませんでした。
数年前は触れなかったその頭も、僕は怯えることなく、ゆっくりと触ることができました。僕が大きくなったからか、シリウスが落ち着いてしまったせいか。
手がべちょべちょになるのは嫌ですが、こうして舐められないのもまた悲しいものでした。
シリウスに癌が見つかったのはいつでしょうか。もう何年も前のような気がします。
でも元気というか、大丈夫らしい、と聞いていたので、そんなに心配していなかったんですが、会いに行ってみると、前足にぷっくりと膨れた赤い腫瘍ができていて、真っ黒だった毛もその部分だけすっかり抜け落ち、とても見ていられないものでした。
それでも、シリウスはその小さな尻尾をよわよわしく振っていました。
最期の様子などは聞いていませんが、穏やかなものであったと願うばかりです。
僕の大学があるのは福岡で、祖父母は長崎にいるので、日本にいても死に目に会うことは難しかったでしょうが、こんなに遠くにいると、そんな望みはそもそも抱けず、本当にやりきれない気持ちになるばかりです。
たまに僕は考えていました。シリウスが僕たちと同じように考えることができたら、何を思うだろう、と。
飼い主が途中で変わり、散歩にも行けなくなって、癌にもなって......。
一生って何なんだろう、と思いました。
こうして悲しいことばかり書いていると、シリウスが可哀そうな犬のようになってしまいますが、一方で、本当に元気だった頃も、その人懐こい性格も、祖父母を本当に信頼している姿も、僕は見ていました。
月並みですが、生きていればいいこともあれば悪いこともあるんですね。
ヘッセの「クルヌプ」や、以前紹介したモーパッサンの「女の一生」をつい思い出してしまいます。
・ペット
そして、母から続いてきたメッセージは、みーも危ない、ということでした。
身体が弱ってきたようです。もう年ですからね......。
ペットって何なんでしょう。
猫は大好きなので、将来家にいたらいいなとは思うんですが、
この別れのことを考えると、どうしても心から、飼いたい、とは言い切れません。
一緒にいた時間が幸福であった分、別れのときはいっぺんにどっと同じだけの悲しみが押し寄せてくるような。
どうやっても、このシリウスを失った悲しみがすぐに消え去ることはないでしょう。
時間が経つのを待つだけです。
そして、今日思ったのは、こういった悲しみはなかなか他人と共有できない、ということです。
僕がふさぎこんでいても、オフィスはいつものように賑やかで、誰かの笑い声は響き、そして僕はいつものように仕事をしなければならない、ということ。
しばらくは落ち着いた静かな気持ちで、日々を過ごしそうです。
長い駄文でしたが、読んで頂きありがとうございました。