文体と物語の関係

最近、専ら光文社古典新訳文庫の小説を読んでいる。

Kindle Unlimitedで読める小説で、満足に揃っているのはこの文庫くらいだからだ。

 

初めは正直、気が進まなかった。

光文社古典新訳文庫で出ていたニーチェの「ツァラトゥストラ」を数年前に買ったが、哲学書であるという先入観からか、どうしてもその平易な文体に慣れることが出来なかった。「簡単な言葉でわざわざ直す必要があるのだろうか」とそれ以来、他の本も含めてこの文庫自体を遠ざけてしまっていた。

ちょうどその頃、僕は三島由紀夫にハマっていた。あのマッチョ(?)というか、華麗で厳格な日本語で書かれた小説が好きであった。まさに純文学、という小説だけを手に取り、大衆文学にはほとんど目もくれていなかった

(何が純文学で大衆文学なのか、という定義はさておき。芥川賞っぽいものが純文学、直木賞っぽいものが大衆文学、くらいで受け止めていれば大体間違いない)。

一応言っておくと、三島由紀夫は文体が綺麗だから好き、というわけではない。「潮騒」や「仮面の告白」の印象的な場面は今でもはっきりと思い出せる。

 

 

しかしこうして、しぶしぶながら再び向き合ってみたところ、これがまあ大変面白い。

ラインナップも他の出版社にないものばかりだ。あまり今まで触れてこなかったフランス文学にハマっている。ゾラ、ラディゲ、モーパッサンバルザックバルザックは知っていたが)はこれまで読まなかったことを後悔するほど、良かった。特にゾラが良かった。

 

確かに文章は平易である。とっつきにくいイメージのある古典を、誰にでも読めるようなものに変換することに成功している。

どうして今、僕はこの文庫を読めるのだろう、と通勤している途中のバスの中で考えてみると、すぐに答えは見つかった。恐らく、「ツァラトゥストラ」からイタリアに来るまでの間に、レイモンド・カーヴァーに出会ったからだと思う。

 

レイモンド・カーヴァーアメリカの作家で、もう随分前に亡くなっている。

チェーホフと並んで称されるほどの短編の名手で、遺された短編はこれからもずっと読まれ続けていくだろう(アメリカで現在どう読まれているのか、皆目分からないけれど)。

カーヴァーの内容についてはまたどこかで触れるとして、どうしてここでカーヴァーの名前を出したかというと、彼は小説を書く際に、「出来るだけ日常の言葉で記そう」ということを意識していたからだ。つまり、平易な文章で彼の小説は書かれているのだ。

装飾こそ小説、と思っていたが、彼の小説によっていっぺんに見方が変わった。

今まで読んできた小説の中で、最も面白いと言っても過言ではないと思った。

 

厳かな言葉や単語を並べることは、実はそう難しいことではないのかもしれない。

少しの発想力と、隣に辞書さえあれば、場面にあったイカつい熟語を当てはめることが出来る(僕は出来ないかも)。

だがそういった厳かな雰囲気は、小説になくてはならないものでは、ない。なくたって十分どころか完璧に小説は成り立つ。

これはあくまで僕の意見だ。純文学っぽいものを愛するのも理解出来る。実際、僕も日本文学独特の純文学っぽさを死ぬほど好んでいる。

一方でカーヴァーに出会ってから、ゴリゴリとした文体であることは、小説にとり必要条件ではないのだと知った。人の心に迫るのは、文体だけではない。

 

数年前、僕はあまりに文体に焦点を当てながら小説を読んでいた。カーヴァーを読まなければ、僕はこの素晴らしい光文社古典新訳文庫を一生避けたかもしれない。そう思うと恐ろしくなる。

 

しかしここまで書いて思ったのだけれど、芥川賞直木賞を、純文学、大衆文学を区別するための例えとして出したのは、誤りだったのかもしれない。大衆文学と純文学は、文体だけでなく、描かれているテーマも全く異なるからだ。

まあそうは言っても、本来、こんな区別はどうでも良いもののはずだ。

元々ちゃんとした定義などないし、文学はそういった境界できちんと分けられるほど単純なものではない。

それでも、手に取ってみれば、「純文学だ」「大衆文学だ」という区別は何となくできてしまうのである、なぜか。

新しい考えがまとまれば、このテーマにも触れたいと思う。

 

話が随分と逸れたが、光文社古典新訳文庫は、古典に触れるための最高の機会を提供してくれている。

たった一冊の小説を読むだけで、世界の見え方はいくらでも変わる。

現実を味気なく感じていたり、淡々とした生活を送っているなあと感じていたりしている方は、是非この機に読んでみてはいかがだろうか。